LOGIN黒い革靴。整えられた髪。無駄のないスーツの皺。法廷で見たAIロボットみたいな冷たい姿のままなのに、今はなぜか——私の目の前にいるだけで空気が違って見えた。
「……なにか御用ですか」
声が震えた。怖い。
彼は私の顔を一度だけ見て、すぐに視線を逸らした。
「ここでは話しにくいので、お話を聞いてもいいと思われたらこちらにいらしてください。移動しましょう。あなたにとって悪い話ではないと思います」
悪い話じゃないとはどういうことだろう?
興味がわいたので話を聞くことにした。「わかりました。どこに行けばいいですか?」
「これを」Invitation(招待状)と書かれたカードをもらった。
「おひとりでいらしてくださいね。場所はキューズロイヤルホテルの会員制のレストランになります。タクシーチケットも入っているので、そちらを利用していらしてください。招待状を見せれば中に入れます。では」
AIロボットの彼はきびきび歩いて去っていった。
(どうせ行く宛てもないし……行ってみよう)
彼にもらった招待状とタクシーチケットを使い、私はキューズロイヤルホテルへ向かった。
※
到着したのは有名な高級ホテルで、1泊の宿泊金額が桁違いのロイヤルスウィートルームもある場所だった。その最上階の会員制のレストランを指定してくるなんて。
フロントで恐る恐る招待状を見せると、エレベーターを案内してくれた。直通のそれに乗って店に入る。「いらっしゃいませ」
招待状を見せると中に通してくれた。完全プライベート個室のようで、案内された席は6名ほどがゆったり座れる個室で、すでに先ほどの彼が座っていた。
「ゆっくり食事をしながら話をしましょう。コース料理が出てくるので、食べながら」
先ほどの固い表情とは違い、ややプライベート感のある顔を見せられた。
「お話の前に質問があります」
「はい……なんでしょうか?」
「小倉さん……あなたは、潮(うしお)小・中学を卒業した三浦美都さんで間違いないすか?」
「はい、そうですが、なぜそれを?」
どうして知っているのだろう。不審そうな顔をしていたら、彼が一気にくしゃっと顔を崩した。「俺、島崎だよ。島崎理人! 親が再婚して名前が変わったんだ」「あ!」
私の中で彼の昔の顔が蘇った。確か分厚い眼鏡をかけ、クラスに馴染めずに孤立していた男の子――確かに島崎くんだ。
でも、彼はもっとぶつぶつが多くて太っていて、ぜんぜん面影ないよ……。「ごめん、島崎くんって全然わからなかったわ」
「親父になってくれた人にしごかれて、体型変わったんだよ」
「変わったどころの騒ぎじゃないでしょ。あ、でも、かっこよくなったんだね」
「三浦さんにそう言ってもらえてうれしいよ。あ、これ」
彼は名刺を差し出した。
財前 理人(ざいぜん りひと)
名刺の紙は厚く、角がきっちりしていて、指先にかすかな凹凸が伝わる。
「島崎君……ええと、今は財前君か。私になんの話があるの?」
「――まずは、ごめん」
財前君は目の前のテーブルに頭を擦る勢いで頭を垂れた。
えっ、なんで、財前君が謝っているの!?
黒い革靴。整えられた髪。無駄のないスーツの皺。法廷で見たAIロボットみたいな冷たい姿のままなのに、今はなぜか——私の目の前にいるだけで空気が違って見えた。「……なにか御用ですか」 声が震えた。怖い。 この人はさっきまで私を切り刻んでいた。今さらなにを言われるのか、想像するだけで胃が痛む。 彼は私の顔を一度だけ見て、すぐに視線を逸らした。「ここでは話しにくいので、お話を聞いてもいいと思われたらこちらにいらしてください。移動しましょう。あなたにとって悪い話ではないと思います」 悪い話じゃないとはどういうことだろう? 興味がわいたので話を聞くことにした。「わかりました。どこに行けばいいですか?」 「これを」 Invitation(招待状)と書かれたカードをもらった。「おひとりでいらしてくださいね。場所はキューズロイヤルホテルの
私が黙っていることをいいことに、原告席の弁護士が即答する。「はい。原告は早期解決を強く望んでおります。離婚は前提です。その上で、被告に過大な請求をせず、公平な条件を提示しております」 公平—— この裁判自体、不公平なのに。なにを公平だというの。 裁判官は「では」と区切り、私のほうを見た。「被告はどうですか。離婚自体について、反対ですか」 反対と言えばいい。 反対だと言ってしまえばいい。 でも——反対と言った瞬間、次に来るのは「では証拠を出してください」だ。 私は出せない。 出せない私の言葉は、虚言として切り捨てられる。 喉の奥が、ぎゅっと縮む。「離婚、は……」 待って。 私が悪いと思われていたとしても、もう、離婚でよくない? 夫の暴言や急変する態度に怯えて生きなくてもいいなら、このまま離婚に同意するほうが、ずっといいような気がした。 裁判官が私の言葉を待つ。 まるで秒針の音が聞こえそうな静けさ。 原告席の夫がこちらを見た。 氷みたいな目。家で何度も見た目だ。 私が黙るまで、じっと追い詰めてくる目。 その目を向けられると、ひゅっと息が詰まってもうなにも言えなくなる。 弁護士が紙を一枚差し出した。「和解案として、次の条件で進めたいと考えています」 内容を淡々と読み上げる。「財産分与はなし。婚姻期間が1年と短く、共有財産が実質的に形成されていないためです。慰謝料もなし。原告は被告を責める意図はありません。ただし——」 弁護士が一拍置く。「今後一切、原告に対して連絡・接触をしないこと。SNSを含め、原告の名誉やプライバシーに関わる発信を行わないこと。また、原告が被告に対しても同様とさせていただきます。双方子はおりませんので、ここで終結できます」 綺麗に整った言葉。 “ここで終結できます”という言い方が無機質で冷たい。まるでAIロボットのようだった。 裁判官が補足するように言う。「被告にとっても、紛争が長引くことは精神的負担が大きいでしょう。訴訟を継続すれば、主張と立証のやり取りが必要になります。早期解決の可能性があるうちに、よく考えてください」 面倒なことはさっさと終わらせろ、と言われているようだ。 私は机の端を見つめた。「……あの」 言いかけた瞬間、原告席の弁護士に追い打ちをか
「私も……家庭を守ろうと、努力しました……」 言葉がうまく続かない。頭の中で言いたいことは次々浮かぶのに、口から出てくるのは途切れ途切れの断片だけ。胸がざわざわして鼓動が早鐘のようだ。裁判官がじっとこちらを見つめているのがわかる。表情は読めない。 原告席の弁護士がすっと片手を上げ、冷静な声で割って入ってくる。「被告の主張は具体性を欠いています。感情に基づく憶測ではなく、事実に即した反論をお願いできますか」 感情に基づく憶測——その言葉が頭の奥で反響する。カンジョウニモトヅクオクソク。私の必死の訴えは、彼らにはただの感情的なわがままに映っているのだ。事実に即した反論?そんなもの、できるならとっくにしている。証拠がないから闘っているのに。私は唇を噛む。嫌な味が口の中に広がる。血の味だ。「ですが……」 やっとの思いで声を絞り出すが、裁判官の一言にかき消される。「被告は落ち着いてください。先ほどの原告側の主張に対し、何か証拠をもって反論できますか?」 その声は穏やかながらも突き放すようだ。証拠——また証拠だ。 結局、この場で意味を持つのは形に残るものだけ。私がどんなに胸の内を叫んでも、涙を流して訴えても、それは無いも同然なのだ。「証拠は、あ、ありませんが、でも……」 声が震える。だめだ、言葉が続かない。 視界が滲み、裁判官の顔がぼやけていく。頭の奥がじんじんと痛む。恥ずかしい。悔しい。何もできない自分が情けなくて、泣き出しそうになるが、それでもなんとか踏みとどまる。ここで泣いたら終わりだ。私はぎゅっと目を閉じ、一度だけ大きく息を吸い込む。 目を開けると、夫の弁護士が小さく肩をすくめるのが見える。そして夫は、私をきっと睨んでくる。 ああ……その鋭い眼差し、冷徹な瞳……少し前までの悲惨な夫婦生活が蘇り、フラッシュバックして涙が出そうになる。 彼の横顔は石の彫刻のように硬く、冷たい。私がどんなに心を砕いて訴えても、あの人の心にはもう届かないのね。かつて愛した夫が、今ではこんなにも遠い存在になってしまった。 法廷には沈黙が満ちている。裁判官は私が何も差し出せないとわかると、小さくうなずき、手元の書類に目を落とす。 ペン先が紙を擦る音が、妙に大きく聞こえる。 私の発言が今、文字になって整理されていく。 整理されないまま、喉の奥で湿
(どうしてこんなことに……) 離婚調停がうまくいかなかったため夫に裁判を起こされた私は今、家庭裁判所の法廷にいる。そこは、想像していたよりずっと小さかった。 テレビで見る「裁判」のような圧倒的な迫力はない。けれどその分、逃げ場がない。 正面に腰ほどの高さの木の壁が立ち上がり、その向こうに裁判官席がある。 淡い木目のパネルが視界をまっすぐ切り分け、こちら側とあちら側を別の世界みたいに隔てている。裁判官席は一段高く、中央の大きな椅子が主役のように据えられていた。 私は傍聴席ではなく被告席にひとりで腰掛けている。お金がないから無料相談の弁護士に成功報酬でお願いしていたのに、突然依頼を降りるとキャンセルされてしまい、ひとりで闘うことになった。 この狭い世界にただひとり、まるで罪人になったかのようで息がつまる。 視線の先、原告席には夫の小倉蒼大(おぐらそうだい)とその代理人である弁護士が並んで座っている。夫はスーツ姿で表情一つ変えず前を見据え、隣の座高が高く鋭い目をした弁護士が差し出す書類に軽くうなずいている。私の知っている夫とは別人のように冷たい横顔——それが今、私と対峙する原告の顔だ。 裁判官が開廷を告げ、それぞれが証言台に向かって宣誓書の読み上げ(嘘をつかない宣誓)、粛々と手続きが進んでいく。形式的な言葉が交わされ、事件番号や双方の氏名が読み上げられるのをどこか他人事のように聞いている。心ここにあらず、という言葉があるけれど、まさに今の私がそうだ。現実感がない。自分がこうして法廷で夫と争っているという事実さえ、どこか遠くで起きている出来事のように感じられる。「それでは原告側の主張をお願いします」 裁判官の淡々とした声に意識が現実に引き戻される。夫の弁護士――財前理人(ざいぜんりひと)が立ち上がり、一礼してから静かに口を開き、低く落ち着いた声が法廷に響く。淡々としているのに、不思議と通る声だ。私の胸がどくんと高鳴る。 弁護士は用意してきた書面を見ながら、整然と夫側の言い分を読み上げていく。「被告は婚姻期間中、家庭生活において度重なる不誠実な行為を行い、夫である原告に多大な精神的苦痛を与えました」 淡々と紡がれる言葉は刃物のように突き刺さる。一語一句が私を断罪する判決文のように響き、息が苦しくなる。 不誠実な行為に精神的苦痛——なにそれ







